日本の茶・茶道の歴史をわかりやすく解説【奈良・平安~戦国時代】

茶と茶道の歴史茶道

茶道は日本を代表する文化です。

ここでは中国から渡ってきた茶が茶道として確立されるまでの日本の茶・茶道の歴史(奈良時代~戦国時代)をわかりやすく解説します。

簡単にまとめますと、中国の唐の時代に遣唐使や留学僧たちによって奈良・平安時代に茶が茶の葉を蒸して固めた「団茶」の形で伝わり、鎌倉時代には栄西が茶道「四頭茶会」 を、さらに、室町時代から戦国時代に、村田珠光が見いだした「侘び茶」を、 武野紹鴎がさらに洗練させ、紹鴎の弟子である千利休が完成させました。 

奈良・平安時代の茶

世界に広まったすべての茶のもとは中国で 、中国の唐の時代に遣唐使や留学僧たちによって日本(奈良・平安時代)に茶の葉を蒸して固めた「団茶」の形で伝わったといわれています。

団茶は必要分を削って釜で煮出し、中国製の白磁や青磁茶碗、また山茶碗と呼ばれる粗製の国産茶碗で飲まれていました。

その当時の茶は貴重なもので、天皇や貴族、僧侶など一部の高貴なひとたちの飲み物でした。

一方、日本には「山茶」と呼ばれる自生の茶樹があったといわれています。

寺院での引茶

奈良・平安時代には主な寺院内に茶園が設けられ、茶が行事に使われるとともに、来客などにふるまわれていました。

この時代は仏教で国の安泰をはかろうとする鎮護国家の思想が盛んだったため、盛んに寺院が作られ、寺院に付属する形で茶園が各地に広まりました。

国家安泰を祈るため多くの僧侶が「大般若経」を読誦する行事を「季御読経」といいます。

3,4日間にわたり行われ、2日目には僧侶たちに茶をふるまう「引茶」がありました。

引茶では、行事担当の貴族が僧侶たちに茶を勧め、好みによって甘葛や厚朴、生姜などの調味料を加えたとされています。

源氏物語の中の茶・食器

平安時代の初め頃まで中国文化の影響もあって文字は「漢字」が使われており、書風も嵯峨天皇や弘法大師空海らの「三筆」、伝教大師最澄などに見られるように中国風でしたが、西暦900年頃に「平がな」が広まったといわれています。

平安時代の物語文学の代表が紫式部の「源氏物語」ですが、その中にある第6帖「末摘花」には食事の場面が描かれています。

そこでは「秘色やうの唐土のもの」の食器が使われており、これは中国越州窯で焼かれた青磁だといわれています。

つまり、その当時の都の貴族たちは中国貿易で輸入された唐物を日常的に使っていたことが推測できます。

源氏物語の漫画もありますので、源氏物語を気軽に読みたい方におすすめです。

和歌が掛物・茶道具の銘として

『新古今和歌集』は平安時代末に編まれた和歌集で、その編者の一人藤原定家は、独特の「定家様」と呼ばれる書風や彼が和歌を書いた「定家色紙」でよく知られています。

利休所持の茶壷「橋立」は『古今和歌集』の「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」から取られたもので、このように 『新古今和歌集』 を茶道具の銘にしたものがあります。

また、江戸時代に定められた中興名物茶入の多くが和歌を銘にしており、『古今和歌集』などの和歌集や『伊勢物語』の内から取られたことがわかっています。

茶の湯が和歌への注目を始めたのは武野紹鷗が定家筆の色紙を茶席の掛物としたことから始まるとされており、当時唐物茶道具が幅を利かせている中で突如日本的な和歌色紙が現れました。

これ以降、今井宗久・明智光秀・豊臣秀吉・石田三成らの茶会に和歌色紙が使われました。

このように和歌や和歌集は茶の湯が盛んになると歌を詠む公家貴族たちばかりではなく、武家の間にも掛物や茶道具の銘としても取り入れられました。

新古今和歌集のおすすめの書籍です。

とにかくわかりやすいです。

鎌倉時代の茶

鎌倉時代中頃には茶葉をすりつぶして抹茶にして茶筅で混ぜて飲む方法が普及しはじめました。

これは単なる飲料としての飲み方で、まだはっきりとした作法や懐石料理などは伴っておらず、茶を飲む専用の部屋もありませんでした。

栄西【日本の茶道の祖・四頭茶会】 

ところで、茶道とは、抹茶を飲むことを中心に茶室や露地、掛物や茶碗などの茶道具・点前・精神性などが融合して作り上げられた一つの文化ですが、このような茶道は鎌倉時代に栄西によって伝えられましたといわれています。

栄西は比叡山の僧侶で、中国を経てインドに向かおうとするが果たせず、当時中国で流行していた禅を学んで1191年に帰国します。

その後、禅宗と抹茶法を日本に伝え、船が着いた平戸に茶の苗木を植えて茶園を営んだとされますが、当時の抹茶というのは座禅の際の眠気覚ましと健康薬としてのものでした。

また、栄西の書き残した『喫茶養生記』には抹茶がいかに体に良いものであるかを中国の最新医学書などを利用して説明されており、抹茶が健康飲料として効果があるということが書かれています。

栄西はその後寿福寺や建仁寺を建設し、禅宗と抹茶法を広めていきました。

栄西の広めた喫茶法は「四つ頭の式」「四頭式茶礼」 「四頭茶会」と呼ばれ、抹茶が入れられた天目形の茶碗が参客に配られた後、給仕の僧侶が湯を注いで茶筅で茶を点てて回るものです。

「四頭茶会」は 建仁寺 や 建長寺などの現在の禅宗寺院でも行われています。

一般の方も予約をすれば参加可能です。

上記の動画は建長寺の 「四頭茶会」 の様子です。

なお、建仁寺の「四頭茶会」は平成24年3月に京都市登録無形民俗文化財に指定されています。

建仁寺については以下の本がおすすめです。

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禅宗と清規

ところで、禅宗のもつ座禅などによって何事にも動じない精神を鍛えるという側面が、武士たちの要望に応えるものであったため、禅宗は主に鎌倉武士たちの間で広まりました。

また、この頃の中国では南栄が滅亡し、元が建国される時期にあったため、国内の混乱を避けることもあり、有名な禅僧たちが来日しています。

鎌倉では幕府5代執権・北条時頼の帰依を受けて1253年に宋の蘭渓道隆が建長寺に、1282年には宋の無学祖元が8代執権・時宗に招かれて円覚寺の開山となりました。

同様に京都にも多くの禅宗寺院が創建され、ここでも中国僧やその薫陶を受けた日本僧が住職となっています。

さらに、寺院内で禅僧が守るべき規則を書いた「清規」も中国から伝わったものです。

「清規」には来客をもてなすための喫茶、新任住職に対する喫茶など、様々な場合の喫茶について詳しく規定されており、これを通して喫茶は各地の禅宗寺院に広まっていきました。

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中国との交易

また、鎌倉時代には寺社の創建や再建のために、海外貿易で費用を補う目的として数多くの「寺社造営料船」が中国に派遣されています。

1342年の天龍寺造営のために派遣された「天龍寺船」や建長寺の火災による再建のための「建長寺船」など、年間40から50隻の船が派遣されたといいます。

一方、1323年頃に日本に向かっていた船が朝鮮半島南部の新安沖で難破、沈没しました。

その積み荷には元代から銅銭や陶磁器などおよそ二万点、加えて朝鮮半島の「高麗青磁」など多くの輸入品があったといわれています。

これらから船は現在の中国浙江省寧波を出発し、高麗での取引を終えたのちに日本に向かう途中で難破したものと考えられています。

引き上げられた唐物の中には、のちに茶の湯の花入として珍重された宋代龍泉窯の「青磁鯱耳花入」や茶壷などが含まれていたことから、鎌倉時代に茶の湯の道具が大量に輸入されようとしていたことがわかります。

闘茶

鎌倉時代のもう一つの特徴として 「闘茶」 があげられます。

「闘茶」とはいわゆる茶の産地を飲み当てたり、品質を競うゲームです。

こんな映画がありましたね。

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「闘茶」は鎌倉時代の末、1332年に光厳天皇の御所に近侍たちが集まり「景品を出して飲茶勝負をした」と記録されており、さらに、数年後に京都で書かれた落書にも「十種茶や十種香の集まりは鎌倉でもあるが、京都ではなお盛んだ」と、10種の茶を飲んで味を飲み分ける闘茶が盛んであったことが書かれています。

「闘茶」によって争乱に及ぶことや数多くの景品がかけられていたため、禁止の対象となるほどに「闘茶」は盛んでした。

闘茶の方法としては「本茶」と「非茶」を飲み当てるのが原型であり、のちに各種の茶を混ぜて10種類にして、1回10種1セットを数回飲むという形ができあがったようです。

闘茶は少なくとも鎌倉時代末ごろから室町時代の中頃まで、茶の湯が出現するまで100年以上続きました。

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室山時代の茶

倭寇の活動や南北朝の争乱などを背景に室町幕府は中国との貿易を行うことができませんでした。

ところが1392年に室町幕府三代将軍・足利義満の主導で南北朝の合一が実現するとその結果、1401年に勘合貿易が始まり、明から唐物茶道具などが輸入されるようになりました。

北山文化

義満はそれまでの将軍邸を4代将軍・義持に譲り隠居し、新たに京都北山に邸宅「北山殿」を構え、広大な敷地内にさまざまな建物を建てました。

邸内のプライベートな接客空間である会所では連歌会や闘茶などが催され、中国から輸入された美術工芸品などが飾られました。

義満はその後禅宗に傾倒し、新たに相国寺を建設し、五山制度という主に臨済宗の寺格を定めた制度を制定するなど禅宗を手厚く保護しました。

京都五山を中心とした寺院では善の境地を詩文で表現する五山文学や水墨画が盛んになり、さらにそれまでの猿学や世阿弥らにより能楽として大成し、これらを統合して北山文化と呼ばれています。

室町時代の将軍邸や守護大名たちの邸宅にはプライベートな接客や連歌、和歌会などの会場として使用される会所等場所が作られました。

6代将軍足利義教の自邸の会所には量の唐物などの中国からの輸入品が飾り付けられていました。

これらの唐物は同朋衆によって管理され、折にふれて飾りに使われましたが、やがて整理する必要に迫られ種類別・時代別に鑑定、整理されていきました。

飾り方や唐物の良し悪しの基準も明確になり、それらの結果として『君台観左右帳記』という書物が出来上がりました。

室町幕府は明朝との間で勘合貿易を行っていたため、中国の美術の優良品が輸入されました。

幕府が弱体化すると売却され、将軍家に伝わった優良品として「東山殿御物」、3代将軍義満にちなみ「鹿苑院殿御物」などと呼ばれていました。

このような大量の御物を管理する人(同朋)がいました。

特に、能阿弥、芸阿弥など美術品の飾りつけや保管を担当していた「会所の同朋」はよく知られています。

将軍家の来客や行事に際して、膨大な芸術工芸品の中から最適な絵画や道具を選び出し、飾りつけや点茶用具を準備していました。

押板や付書院、茶湯棚の飾り、美術工芸品の様子、ランクなどを記したのが『君台観左右帳記』です。

『君台観左右帳記』は能阿弥の孫の相阿弥が1511年頃に完成させたといわれています。

江戸時代には座敷飾りや唐物茶道具鑑定の参考にされました。

東山文化

「東山文化」とは、戦乱を避けた足利義政の別邸東殿周辺で生まれた文化です。

この時代に生まれた「わび」の文化で、茶の湯の原型もこの時期に作られました。

1513年頃に造られた代表的な庭園が大徳寺塔頭・大仙院の枯山水が有名です。

現代の生け花の元になる立花もこの時期に生まれました。

立阿弥は義政に仕えた同朋で、将軍帝の花を立て、将軍から天皇に贈られる花を担当しました。

水墨画は禅の境地を表します。

雪舟等楊も相国寺の僧として周文に学んだそうです。

しかし、それだけでは足らず中国に渡って水墨画を学び、帰国後は、墨の濃淡を中心にする破墨法を駆使して「四季山水図」「破墨山水図」「天橋立図」「慧可断碑図」などを残しました。

こうしてみると東山文化の時代に生まれた文化は、日本の伝統文化の元になったと言えます。

1400年代の初めには、東寺などの門前で参詣客に茶を売る、一服一銭の茶売りがいました。

『七十一番職人歌合』には、「粉葉の御茶、召し候へ」と呼びかける僧侶姿の茶売りが描かれています。

茶売りの人の名前が僧侶風であることや、当時境内に移動して茶を売り、冷や水は境内の仏教施設から調達していたことが、当時の契約書から分かっています。

このような契約が結ばれた背景として、茶は単なる飲み物ではなく神仏から下されたものと考えられていたことが挙げられます。

しかし、寺社にとって茶売りは邪魔な存在であり、後に境内やその周辺から追い出され、市中で担い茶屋を持ちながら「振り売り」をしていました。

村田珠光 【わび茶の祖】

珠光は、また、臨済宗の珠光の時代は、舶来品を愛でながら茶を楽しむ豪華な茶会(殿中の茶)が中心でしたが、珠光が見いだした「新しい茶の湯」の精神が、珠光の死後も弟子に受け継がれ、やがて今日の茶道へとつながっていくのです。

村田珠光は、浄土宗・称名寺に入寺しますが、出家することを嫌い、能阿弥に師事しました。

そこで茶の湯・和漢連句・唐物目利きなどを習い、能阿弥の推薦で足利義政の茶道師範となりました。

一休さんで有名な一休宗純から禅を学び、これらの経験がもとになって「わび」(冷え枯れる)の精神を提唱しました。

ちなみに、「わび」の精神は、諸島に木々の緑が衰え、物寂しい風情の中に清い力強さを秘めているような有様を言います。

この時代の茶会は舶来品を愛でながら茶を楽しむ豪華な会が中心でしたが、この「わび」の精神が、珠光の死後も弟子に受け継がれ、今日の茶道へとつながっています。

特に、村田珠光は「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」という言葉を残しており、唐物だけを良しとした風潮に対し、日本の焼物のもつ素朴な美しさにも関心を寄せるべきだと主張しました。

そんな珠光が残した茶道具は「珠光名物」と呼ばれ、そのうちの1つの茶碗を千利休が使用していたといわれています。

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宇治茶

今では京都宇治茶が有名ですが、鎌倉時代は京都の西、栂尾の高山寺周辺の茶が有名でした。

当時の文献でも栂尾の茶が最もすぐれた「本茶」として記されており、京都宇治は栂尾の補佐として紹介されています。

ところが室町時代になると茶の主流は栂尾から宇治へと移り、宇治茶の名が広く知られていきました。

その後1400年代になると茶の栽培方法も洗練され、「栂尾茶」や「宇治茶」などの産地名だけではなく品質を表すような名前が付けられていきました。

1500年代には覆い下栽培が普及し、濃茶と薄茶のはっきりとした差が現れ、それぞれに固有の名前が付けられていくようになりました。

1500年代の室町時代後半になると、茶を飲料としてのみならず、文化を伴う「茶の湯(茶道)」が作り出されました。

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戦国時代・安土桃山時代

ここから茶の湯・わび茶が確立される戦国時代・安土桃山時代について解説します。

なお、上記の動画では、簡単な茶道の歴史とこの時代に確立された茶道の精神についてとても簡潔に解説しています。

武野紹鴎 【わび茶を完成】

武野紹鴎は武具を扱う裕福な商人の父のもとに生まれました。

23歳の時、当時の花形職業であった連歌師を目指すため京都へ遊学し三条西実隆に弟子入りしました。

さらに、村田珠光の流れを継ぐ茶人から茶の湯を学びます。

つまり 武野 紹鴎は村田珠光の孫弟子にあたります。

そして30~31歳のときに京都から堺に帰り、出家し古嶽宗亘から「紹鷗」の称号を得て、茶の湯に専念します。

村田珠光と同様に、茶室や茶道具の改革を行ないました。

紹鴎の茶室は、藁屋根の四畳半に囲炉裏を切った茶室で、さらに、唐物の茶器から信楽、瀬戸、備前といった和風の茶器を使いました。

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織田信長

織田信長は戦国武将のなかでも高い人気を誇る人物です。

茶の湯とのかかわりとしては、名物茶道具を強制的に買い上げる「名物狩り」や、功績のあった部下にのみ名物茶道具を下賜し茶会を開くことを許可する「御茶湯御政道」などで知られます。

信長は上洛してから本格的に名物茶道具に興味を持ち始めました。

上洛直後、信長は大和国の大名松永久秀から「つくも茄子」茶入、堺の今井宗久から「紹鴎茄子」茶入、「松島」茶壷の3点を贈られています。

信長は集めた茶道具をもとに、岐阜城や京都の妙覚寺などでたびたび茶会を開催しました。

合戦に勝利した証に茶道具を手に入れ、茶会で披露しては権威付けを行い、功績を残した家臣に恩賞として茶道具を与えることを繰り返していました。

つまり、信長は名物茶道具下賜のサイクルを生み出した人物といえます。

家臣も功績を認められたこと、茶道具を与えられたことを喜ばしく思っていました。

たびたび行われていた茶会のなかには本能寺で開催された茶会もありました。

本能寺の一角にある信長専用の宿泊施設で茶会を催すために、安土から「貨荻船」花入、「紹鴎白天目」を含んだ38点の茶道具を持参し、客には徳川家康や島井宗室らを予定していました。

しかしこの茶会は明智光秀の襲撃によって行われることなく、信長は自刃し、茶道具はほとんど焼失しました。

信長は収拾に力を注いだ茶道具とともに生涯を終えたのです。

信長が催した茶会の一つ、津田宗及を招いた妙覚寺での茶会を見てみると、掛物には牧谿筆「洞庭秋月」の絵、竜が彫られた漆台に乗った武野紹鷗蔵「白天目」が、さらに、三の膳までの料理、つまり武家の正式な饗宴になぞらえた食礼でもてなしています。

菓子には絵が描かれた縁高に9種類の水菓子などが出されました。

天下人である信長が茶会に使用した茶道具は、それまで以上の価値を持つようになり、それにより茶道具は高騰化していき、インフレ状態となりました。

ものによっては数千万円の評価をつけられるものもありました。

その希少で高価な茶道具は、それまでの所持者の権威や信望を示す「威信財」として考えられるようになり、物茶道具の文化的価値を知り、茶の湯を身に着けることは官位や和歌と同等の文化的かつ必須の教養として定着していきました。

そういった点も含め、信長は茶の湯に大きな役割を果たしたといえるでしょう。

1576年に、織田信長は安土城の築造を担当した丹羽長秀に「珠光茶碗」 を、その後に柴田勝家に古天明釜、 豊臣秀吉に 「月絵」 (洞庭秋月の絵)を下賜しています。

これが家臣への初めての茶道具下賜です。

天下人である信長が手に入れて茶会に使った茶道具は、それまで以上の価値を持つことになりました。

このように、信長が茶の湯に果たした役割は大きいのです。

以下の2つが戦国時代の武将と茶道の関係について読める本です。

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宮帯出版社
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山上宗二記

「山上宗二記」は名物茶道具リストですが、時に値段に言及しており、現在の数千万円級の評価のものが並んでいます。

その希少性ゆえに高価で伝来の確かな茶道具は、 それまでの刀剣に並んで所持者の権威や信望を示す 「威信財」と 考えられるようになりました。

名物茶道具の文化的価値を 知り、 茶の湯を身に付けることは、 官位や和歌などに並ぶ 文化的な大名・教養大名たちの序列の上昇に必須の教養となっていきます。

今井宗久

堺は、元々は小さな町でしたが、1476年ごろ、勘合貿易が始まったころから発展しました。

なぜなら、周防国の守護大名の大内氏が室町幕府と対立して瀬戸内海の航行を制限したことで、勘合貿易は四国沖を通るルートとなったからです。

以降、堺は貿易港として発展し、会合衆や新興の堺衆と呼ばれるリーダーたちが町の運営を行いました。

その中でも、いち早く織田信長に近づいたのが今井宗久です。

織田信長が堺を支配することになったときに、堺は反発して交戦しようとしました。

このときに、織田信長側についたのが今井宗久でした。

今井宗久は織田信長のもとを訪れて、紹鷗茄子という名の茶入と、松島という名の茶壷を進上しました。

その結果、信長は宗久に堺五ケ庄の代官職を与え、信長の茶頭を務めることになりました。

また、今井宗及は武野紹鷗の娘婿になり、多くの茶道具を受け継ぎいでいます。

津田宗及

津田宗及は、堺の豪商の天王寺屋の当主でした。

津田宗及は豊臣秀吉に茶頭の1人として仕えました。

大阪の石山の本願寺などが主な取引先で、これに加えて阿波や関西、九州の博多まで勢力を拡大し、武家を相手に物資の調達や年貢の管理をしていました。

信長によって堺の支配が認められると、信長との関係が深まっていきますが、それでも本願寺や三好一族などと関係を絶つことはありませんでした。

しかし、1573年には、一族とともに信長の妙覚寺茶会に参加し、 翌年2月には居城の岐阜城にただ一人招かれて歓待を受けており、この頃にやっと信長に従うことにしたようです。

今井宗及は父の宗達時代に続いて、子の宗凡まで3代にわたる茶会の記録 『天王寺屋会記』 を書き継いでいます。

信長、秀吉時代の茶会の様子のみならず、 当時の出来事までを自筆で書き残している貴重な茶会記録です。

天王寺屋一族が持ち伝えた名物茶道具の数はかなり多く、その一部は大徳寺龍光院に伝わっています。

島井宗室

海島井宗室は外貿易で発展した博多で、織田信長の時代に活動した人です。

島井家は、酒造業と金融業を経営していました。

島井宗室は九州を中心に6カ国の守護の大友宗麟に貸し付けを行い、対馬の宗氏とも貿易を行っており、九州での貿易に長けており、信長はいつか九州を領有することを考えて優遇したのではないかと考えられます。

1576年ごろ、大友家が薩摩国の島津氏に圧迫され始めると、宗室は信長に接近して特権の温存をはかるために天下三肩衝の1つである楢柴肩衝茶入れを進上するつもりでした。

信長は宗室に所持する茶道具を見せる約束をしていたため、宗室は京都本能寺に呼ばれていました。

しかし、信長は本能寺の変に遭遇したため、宗室はかろうじて弘法大師空海の書いた千字文を持ち出したというエピソードが残っています。

豊臣秀吉

尾張生まれで、織田信長に仕え、戦国大名として頭角を表しました。

秀吉の初めての茶会は、織田信長が行った茶会で使われた茶碗を使用しました。

この意図には、自分がいかに織田信長に可愛がられていたかをアピールするものだったと言われています。

信長から茶の道具を下賜されて以降は、今井宗久を通して茶道具の収集を行いました。

また、大徳寺大茶湯といった大規模な茶会も開きました。

また、当時の天皇である正親町天皇を自身が作った黄金の茶室に招いて茶会を開いています。

また、秀吉は千利休を自らの茶頭(茶坊主)に据えましたが、その後に自ら利休に切腹を命じました。

詳しくは上記の動画を参考にしてください。

また、こちらの映画も参考にしてください。

三國連太郎が千利休、山崎努が豊臣秀吉で出演している千利休の映画です。

映像がとても綺麗で、見ごたえがあります。

1989年9月公開の作品です。

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神谷宗湛

神谷家は、石見銀山を発見して、博多に運搬することで巨利を得たといわれています。

神谷宗湛は、豊臣秀吉に気に入られますが、この背景には、島津攻略、朝鮮出兵、博多の復興等を目指す豊臣秀吉の博多商人の協力を念頭に置いたものと考えられています。

千利休【わび茶を大成】

村田珠光が見いだした「侘び茶」を、 武野紹鴎がさらに洗練・完成させ、紹鴎の弟子である千利休が大成させたのです。

初めて千利休が催した茶会は、23歳、堺の自室に行われました。

その後、三好一族、織田信長に茶の湯で仕える形となり、17人を妙覚寺に招いた茶会では点茶役を執り行しました。

信長死後、秀吉に仕え、精神性の強い侘茶の体系化を行いました。

そして、秀吉が大規模に行った茶会の多くが、千利休の企画であり、利休がいなければ精彩を欠くものとなったとされるほど茶会では大きな貢献を果たしました。

千利休が作ったとされる茶室「待庵」は「妙喜庵(みょうきあん)」という京都にある仏教寺院の中ににあります。

待庵は国宝の茶室で「日本最古の茶室建造物」であり、千利休作と信じうる唯一の現存茶室といわれています。

間取りはわずか2畳ですが、草庵茶室(そうあんちゃしつ)と呼ばれる独自の構造で建てられています。

以下千利休に関するおすすめの映画です。

「利休」を演じるのは三船敏郎、利休の「弟子(本覚坊)」に奥田瑛二、「織田有楽斎」に萬屋錦之介が出演しています。

利休切腹の27年後、利休はどうして切腹したのか、どんな思いで切腹したのかを、利休の弟子と織田有楽斎が回想を混ぜながら解き明かしていく話で、井上靖の「本覺坊遺文」が原作です。

1989年10月公開です。

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角川書店 (映像)
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利休が茶人になる前の若いころから切腹するまでを描いており、市川海老蔵が「利休」を演じています。

2013年12月公開です。

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細川三斎

細川三斎は千利休の茶の湯を最も忠実に守ったとされています。

1640年、78歳の高齢ながら京都の別邸で茶会を催しています。

千少庵と千道安

千少庵と千道安は千利休の子であり、それぞれ茶の湯に励んでいました。

少庵は京都の大徳寺門前屋敷で茶匠としての生活を始めました。

数年を経て市中の二条通に移りますが、40歳を過ぎた頃に本法寺前屋敷に移転しました。

本法寺前の屋敷には、利休大坂屋敷の茶室などを建てています。

ここでは利休所持の茶器を使って盛んに茶会を行い、公家の青蓮院門跡や西洞院時慶、武家の有楽、絵師の俵屋宗達、奈良の茶人・松屋久重らとの多彩な交流を繰り返し、京都で利休の茶を伝える活動をしました。

一方、道安は堺の家を本拠にしながら、1583年、37歳の頃に父の利休とともに秀吉の茶頭として活動しました。

1587年、秀吉が薩摩国の島津攻めを終えて帰還の途中、陣を張った博多の箱崎で利休らとともに茶会を行っています。

1598年の秀吉の死後は茶頭を辞して境に帰りました。

それから5年を経た1603年に、かつての「紹安」を「道安」に改名して茶会を行いますが、これが記録された道安最後の茶会です。

茶の湯のやきものの変遷

室町時代以前は、茶の湯のやきものは唐物の天目や青磁などが中心であった時代を経て、東南アジアの「茶壷」や「亀(瓶)の蓋」、朝鮮半島産の「井戸茶碗」などが使われていました。

ところが、1500年代後半には村田珠光・ 武野紹鴎らの影響により、唐物に変わる和物のやきものへと変化していきました

一方、豊臣秀吉の文禄・慶長の役を契機に新しい茶陶が出現します。

秀吉軍は朝鮮半島で陶器の生産に従事していた陶工たちを強制連行して各大名領に窯を築き、新しいやきものを作り始めました

佐賀鍋島家の唐津焼、山口毛利家の萩焼などがその代表的なやきものです。

これらの窯の中で大量に茶碗や食器などを焼いて領外にも販売して広まったのが唐津焼です。

唐津焼は松浦一族の波多氏が交易力を生かして朝鮮や中国から陶工を招き、生産を始めたとされていわれています。

さらに、鹿児島では武将・島津義弘が慶長のはじめに陶工・金海(星山仲次)に窯を築かせて、茶碗や茶入などを作り始め、さらに1605年頃には朴平意が新たに窯を築くなどして、鹿児島各地で日常品や茶道具が焼かれることになりました。

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おわりに

ここでは、奈良時代から戦国時代までの日本の茶・茶道の歴史を解説しました。

簡単にまとめると、奈良・平安時代に唐から茶が伝わり、鎌倉時代には栄西が茶道「四頭茶会」を伝え、室町時代から戦国時代に村田珠光・ 武野紹鴎・千利休がわび茶を完成させました。

これらは、以下の本を参考にしています。

もっと詳しく知りたい方はそちらをお読みください。

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