日本のお茶・茶道・茶の湯の歴史を簡単にわかりやすく解説

茶と茶道の歴史 茶道

茶道は日本を代表する文化です。

ここでは中国から渡ってきた茶が茶道として確立され、現在に至るまでの日本の茶・茶道・茶の湯の歴史を簡単にわかりやすく解説します。

簡単にまとめますと、奈良・平安時代に中国の唐の遣唐使や留学僧によって茶の葉を蒸して固めた「団茶」の形でお茶が日本に伝わりました。鎌倉時代には栄西が「四頭茶会」を行い、また、闘茶も流行りました。室町時代から戦国時代には、村田珠光が見いだした「侘び茶」を、 武野紹鴎がさらに洗練させ、紹鴎の弟子である千利休が完成させました。江戸時代になると、千利休の流れを汲んだ三千家のほか、武家茶道や煎茶道など多くの流派が生まれました。明治維新後、国民の間に西洋文化が広まるとともに、茶道は一時的に衰退しましたが、もともと男性のものであった茶道は、明治時代になると、良家の子女が通う学校の教養課程に取り入れられるようになり、女性たちが優雅に行う茶道の文化が始まりました。

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茶のはじまり

茶は中国ではじまりました。

広く一般的に普及し始めたのは唐の時代で、都の長安では喫茶店が繁盛し、寺院では座禅の合間に茶を飲むことが行われるようになりました。

のどの渇きを癒し、気分をすっきりさせる覚醒作用としての効果もありました。

唐代の文人・陸羽(りくう)は世界初の茶書『茶経』(ちゃきょう)を書きました。

『茶経』は樹齢数百年の大茶樹の存在、製茶用具、風炉、釜、炭斗、茶を粉末にする薬研、茶の量を計る茶則、柄杓、茶碗、茶巾などの点茶用具、水の品質、中国の茶の産地などについて詳しく書かれています。

唐の時代の茶の飲み方

  1. 茶の葉を積んで蒸し固めて団子状にして保存する
  2. 飲むときには必要分を削って茶臼などで粉にする
  3. 釜の湯に入れて煮出す。
  4. 杓ですくって茶碗に入れて飲む。

唐の時代のお茶は、上記のように「茶の葉を積んで蒸し固めて団子状」の団茶といわれるものが中心で、運搬に適しているため喫茶の普及を促しました。

なお、広東省から輸入した国では茶を「チャ」「チ」と発音しており、福建省から輸入した国では「テ」「ティー」と発音していました。

宋の時代になると、現在と同じ抹茶法に変わりました。

徽宗が書いた『大観茶論』には以下のようなことが書かれています。

  • 茶に湯を加えて軟膏状にし、さらに泡が立たないよう茶筅を振る方法
  • 抹茶を入れた茶碗に一気に湯を入れ、茶筅で混ぜる方法
  • 軟膏状に溶いた茶に湯を7回に分けて入れ、そのたび茶筅の振り方も変えて雲か霧のような細やかな泡が立つようにする方法

『茶経』よりも繊細な点茶法がとられるようになったことがわかります。

奈良・平安時代の茶

中国の唐の時代に遣唐使や留学僧たちによって日本(奈良・平安時代)に上記で解説した茶の葉を蒸して固めた「団茶」の形で伝わったといわれています。

団茶は必要分を削って釜で煮出し、中国製の白磁(はくじ)や青磁茶碗(せいじちゃわん)、また山茶碗(やまぢゃわん)と呼ばれる粗製の国産茶碗で飲まれていました。

その当時の茶は貴重なもので、天皇や貴族、僧侶など一部の高貴なひとたちの飲み物でした。

一方、日本には「山茶」と呼ばれる自生の茶樹があったといわれています。

寺院での引茶

奈良・平安時代には主な寺院内に茶園が設けられ、茶が行事に使われるとともに、来客などにふるまわれていました。

この時代は仏教で国の安泰をはかろうとする鎮護国家の思想が盛んだったため、盛んに寺院が作られ、寺院に付属する形で茶園が各地に広まりました。

国家安泰を祈るため多くの僧侶が「大般若経」(だいはんにゃきょう)を読誦する行事を「季御読経」(きのみどきょう)といいます。

3,4日間にわたり行われ、2日目には僧侶たちに茶をふるまう「引茶」がありました。

引茶では、行事担当の貴族が僧侶たちに茶を勧め、好みによって甘葛(あまずら:甘味料のひとつ)や厚朴(こうぼく:生薬の一種) 、生姜などの調味料を加えたとされています。

源氏物語の中の茶・食器

平安時代の初め頃まで中国文化の影響もあって文字は「漢字」が使われており、書風も空海・嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり)らの「三筆」、伝教大師最澄などに見られるように中国風でしたが、西暦900年頃に「平がな」が広まったといわれています。

平安時代の物語文学の代表が紫式部の「源氏物語」ですが、その中にある第6帖「末摘花」には食事の場面が描かれています。

そこでは「秘色やうの唐土のもの」の食器が使われており、これは中国越州窯で焼かれた青磁だといわれています。

つまり、その当時の都の貴族たちは中国貿易で輸入された唐物を日常的に使っていたことが推測できます。

和歌が掛物・茶道具の銘として

『新古今和歌集』は平安時代末に編まれた和歌集で、その編者の一人藤原定家は、独特の「定家様」と呼ばれる書風や彼が和歌を書いた「定家色紙」でよく知られています。

利休所持の茶壷「橋立」は『古今和歌集』の「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」から取られたもので、このように 『新古今和歌集』 を茶道具の銘にしたものがあります。

また、江戸時代に定められた中興名物茶入の多くが和歌を銘にしており、『古今和歌集』などの和歌集や『伊勢物語』の内から取られたことがわかっています。

茶の湯が和歌への注目を始めたのは武野紹鷗が定家筆の色紙を茶席の掛物としたことから始まるとされており、当時唐物茶道具が幅を利かせている中で突如日本的な和歌色紙が現れました。

これ以降、今井宗久・明智光秀・豊臣秀吉・石田三成らの茶会に和歌色紙が使われました。

このように和歌や和歌集は茶の湯が盛んになると歌を詠む公家貴族たちばかりではなく、武家の間にも掛物や茶道具の銘としても取り入れられました。

鎌倉時代の茶道

鎌倉時代中頃には茶葉をすりつぶして抹茶にして茶筅で混ぜて飲む方法が普及しはじめました。

これは単なる飲料としての飲み方で、まだはっきりとした作法や懐石料理などは伴っておらず、茶を飲む専用の部屋もありませんでした。

栄西【日本の茶道の祖・四頭茶会】 

ところで、茶道とは、抹茶を飲むことを中心に茶室や露地、掛物や茶碗などの茶道具・点前・精神性などが融合して作り上げられた一つの文化ですが、このような茶道は鎌倉時代に栄西によって伝えられましたといわれています。

栄西は比叡山の僧侶で、中国を経てインドに向かおうとするが果たせず、当時中国で流行していた禅を学んで1191年に帰国します。

その後、禅宗と抹茶法を日本に伝え、船が着いた平戸に茶の苗木を植えて茶園を営んだとされますが、当時の抹茶は座禅の際の眠気覚ましと健康薬として使われていました。

また、栄西の書き残した『喫茶養生記』(きっさようじょうき)には抹茶がいかに体に良いものであるかを中国の最新医学書などを利用して説明されており、抹茶が健康飲料として効果があるということが書かれています。

栄西はその後寿福寺や建仁寺を建設し、禅宗と抹茶法を広めていきました。

栄西の広めた喫茶法は「四つ頭の式」「四頭式茶礼」 「四頭茶会」 と呼ばれ、抹茶が入れられた天目形の茶碗が参客に配られた後、給仕の僧侶が湯を注いで茶筅で茶を点てて回るものです。

「四頭茶会」 は 建仁寺 や 建長寺などの現在の禅宗寺院でも行われています。

一般の方も予約をすれば参加可能です。

上記の動画は建長寺の「四頭茶会」 の様子です。

建長寺では毎年10月24日に「四頭茶会」が行われます。

なお、建仁寺の「四頭茶会」は平成24年3月に京都市登録無形民俗文化財に指定されています。

禅宗と清規

ところで、禅宗のもつ座禅などによって何事にも動じない精神を鍛えるという側面が、武士たちの要望に応えるものであったため、禅宗は主に鎌倉武士たちの間で広まりました。

また、この頃の中国では南栄が滅亡し、元が建国される時期にあったため、国内の混乱を避けることもあり、有名な禅僧たちが来日しています。

鎌倉では幕府5代執権・北条時頼の帰依を受けて1253年に宋の蘭渓道隆が建長寺に、1282年には宋の無学祖元が8代執権・時宗に招かれて円覚寺の開山(かいさん:寺院を創始すること)しました。

同様に京都にも多くの禅宗寺院が創建され、ここでも中国僧やその薫陶(くんとう)を受けた(徳の高い人物に良い影響を与えられた)日本僧が住職となっています。

さらに、寺院内で禅僧が守るべき規則を書いた「清規」(しんぎ)も中国から伝わったものです。

「清規」には来客をもてなすための喫茶、新任住職に対する喫茶など、様々な場合の喫茶について詳しく規定されており、これを通して喫茶は各地の禅宗寺院に広まっていきました。

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中国との交易

また、鎌倉時代には寺社の創建や再建のために、海外貿易で費用を補う目的として数多くの寺社造営料唐船(じしゃぞうえいりょうとうせん)が中国に派遣されています。

寺社造営料唐船とは寺社の造営・修復・増築などの費用を獲得することを名目として、幕府の認可を得て、日本から元に対して派遣された貿易船群のことです。

1342年の天龍寺造営のために派遣された「天龍寺船」や建長寺の火災による再建のための「建長寺船」など、年間40から50隻の船が派遣されたといいます。

ところで、1323年頃に日本に向かっていた船が朝鮮半島南部の新安沖で難破、沈没しました。

その積み荷には元から銅銭や陶磁器などおよそ二万点、加えて朝鮮半島の「高麗青磁」など多くの輸入品があったといわれています。

これらから船は現在の中国浙江省寧波を出発し、高麗での取引を終えたのちに日本に向かう途中で難破したものと考えられています。

引き上げられた唐物の中には、のちに茶の湯の花入として珍重された宋代龍泉窯の「青磁鯱耳花入」や茶壷などが含まれていたことから、鎌倉時代に茶の湯の道具が大量に輸入されようとしていたことがわかります。

闘茶

鎌倉時代のもう一つの特徴として 「闘茶」 があげられます。

「闘茶」とはいわゆる茶の産地を飲み当てたり、品質を競うゲームです。

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鎌倉時代の末、1332年に光厳天皇の御所に近侍たちが集まり「景品を出して飲茶勝負をした」と記録されており、さらに、数年後に京都で書かれた落書にも「十種茶や十種香の集まりは鎌倉でもあるが、京都ではなお盛んだ」と、10種の茶を飲んで味を飲み分ける闘茶が盛んであったことが書かれています。

「闘茶」によって争乱に及ぶことや数多くの景品がかけられていたため、禁止の対象となるほどに「闘茶」は盛んでした。

闘茶の方法としては「本茶」と「非茶」を飲み当てるのが原型であり、のちに各種の茶を混ぜて10種類にして、1回10種1セットを数回飲むという形ができあがったようです。

闘茶は少なくとも鎌倉時代末ごろから室町時代の中頃まで、茶の湯が出現するまで100年以上続きました。

室山時代の茶道

倭寇の活動や南北朝の争乱などを背景に室町幕府は中国との貿易を行うことができませんでした。

ところが1392年に室町幕府三代将軍・足利義満の主導で南北朝の合一が実現するとその結果、1401年に勘合貿易が始まり、明から唐物茶道具などが輸入されるようになりました。

北山文化

金閣寺

義満はそれまでの将軍邸を4代将軍・義持に譲り隠居し、新たに京都北山に邸宅「北山殿(きたやまどの)」を構え、広大な敷地内にさまざまな建物を建てました。

室町幕府は明朝との間で勘合貿易を行っていたため、中国の美術の優良品が輸入されました。

邸内のプライベートな接客空間である会所では連歌会や闘茶などが催され、中国から輸入された美術工芸品などが飾られました。

義満はその後禅宗に傾倒し、新たに相国寺を建設し、五山制度という主に臨済宗の寺格を定めた制度を制定するなど禅宗を手厚く保護しました。

相国寺

京都五山を中心とした寺院では善の境地を詩文で表現する五山文学や水墨画が盛んになり、さらにそれまでの猿学や世阿弥らにより能楽として大成し、これらを統合して北山文化と呼ばれています。

北山文化のときに、室町幕府の将軍や大名たちによる茶会の原点ともいえる茶をもてなす宴会が始まりました。

室町幕府の将軍や大名たちは『会所』と呼ばれる建物を作り、そこに多くの唐物の絵や茶道具などを飾り付けて、鑑賞しながらお茶を飲んでいたといいます。

東山文化

「東山文化」とは、戦乱を避けた足利義政の別邸東山殿(ひがしやまどの:足利義政が東山に造営した山荘で現在の銀閣寺)周辺で生まれた文化です。

この時代に生まれたのが「わび」の文化で、茶の湯の原型もこの時期に作られました。

1513年頃に造られた代表的な庭園が大徳寺塔頭・大仙院の枯山水が有名です。

現代の生け花の元になる立花もこの時期に生まれました。

立阿弥は義政に仕えた同朋で、将軍帝の花を立て、将軍から天皇に贈られる花を担当しました。

水墨画は禅の境地を表します。

雪舟等楊も相国寺の僧として周文に学んだそうです。

しかし、それだけでは足らず中国に渡って水墨画を学び、帰国後は、墨の濃淡を中心にする破墨法を駆使して「四季山水図」「破墨山水図」「天橋立図」「慧可断碑図」などを残しました。

こうしてみると東山文化の時代に生まれた文化は、日本の伝統文化の元になったと言えます。

建物も簡素な武家屋敷である書院造が普及し、茶道も東山文化になると、会所で行われたお茶でもてなす宴会は、書院で行われるようになりました。

君台観左右帳記

室町時代の将軍邸や守護大名たちの邸宅にはプライベートな接客や連歌、和歌会などの会場として使用される会所等場所が作られました。

6代将軍足利義教の自邸の会所には量の唐物などの中国からの輸入品が飾り付けられていました。

これらの唐物は同朋衆(どうぼうしゅう:足利将軍家に仕え、美術品の鑑定やさまざまな芸能に従事した人々)によって管理され、折にふれて飾りに使われましたが、やがて整理する必要に迫られ種類別・時代別に鑑定、整理されていきました。

特に、能阿弥、芸阿弥など美術品の飾りつけや保管を担当していた「会所の同朋」はよく知られています。

将軍家の来客や行事に際して、膨大な芸術工芸品の中から最適な絵画や道具を選び出し、飾りつけや点茶用具を準備していました。

飾り方や唐物の良し悪しの基準も明確になり、それらの結果として『君台観左右帳記』(くんだいかんそうちょうき)という書物が出来上がりました。

『君台観左右帳記』は足利義政東山御殿内の装飾に関して、能阿弥や孫の相阿弥が記録したものであり、相阿弥が1511年頃に完成させたといわれています。

『君台観左右帳記』には押板や付書院、茶湯棚の飾り、美術工芸品の様子、ランクなどを記されています。

『君台観左右帳記』は江戸時代には座敷飾りや唐物茶道具鑑定の参考にされました。

なお、幕府が弱体化すると売却され、将軍家に伝わった優良品として「東山殿御物」、3代将軍義満にちなみ「鹿苑院殿御物」などと呼ばれていました。

茶売り

1400年代の初めには、東寺などの門前で参詣客に茶を売る、一服一銭の茶売りがいました。

『七十一番職人歌合』には、「粉葉の御茶、召し候へ」と呼びかける僧侶姿の茶売りが描かれています。

茶売りの人の名前が僧侶風であることや、当時境内に移動して茶を売り、冷や水は境内の仏教施設から調達していたことが、当時の契約書から分かっています。

このような契約が結ばれた背景として、茶は単なる飲み物ではなく神仏から下されたものと考えられていたことが挙げられます。

しかし、寺社にとって茶売りは邪魔な存在であり、後に境内やその周辺から追い出され、市中で担い茶屋を持ちながら「振り売り」をしていました。

村田珠光 【わび茶の祖】

村田珠光(1422~1502)は、京都の大徳寺塔頭の真珠庵で、一休禅師より禅の修行を行い、これらの経験をもとに「わび」の精神を提唱しました。

そのため、村田珠光は日本の茶道「侘び茶」の創始者と言われています。

ちなみに、「わび」の精神は、諸島に木々の緑が衰え、物寂しい風情の中に清い力強さを秘めているような有様を言います。

村田はその禅の精神を取り入れ、4畳半の簡素な茶室をつくり、茶をたてることにより、心の静けさを求めるという茶を行う者の精神性を強調しています。

村田は浄土宗・称名寺に入寺しますが、出家することを嫌い、能阿弥に師事しました。

そこで茶の湯・和漢連句・唐物目利きなどを習い、能阿弥の推薦で足利義政の茶道師範となりました。

この時代の茶会は舶来品(唐物など)を愛でながら茶を楽しむ豪華な茶会(殿中の茶)が中心でしたが、村田珠光は「和漢のさかいをまぎらかすこと肝要」という言葉を残しており、唐物だけを良しとした風潮に対し、日本の焼物のもつ素朴な美しさにも関心を寄せるべきだと主張しました。

そんな珠光が残した茶道具は「珠光名物」と呼ばれ、そのうちの1つの茶碗を千利休が使用していたといわれています。

この「わび」の精神が、珠光の死後も弟子に受け継がれ、今日の茶道へとつながっています。

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宇治茶

今では京都宇治茶が有名ですが、鎌倉時代は京都の西、栂尾の高山寺周辺の茶が有名でした。

当時の文献でも栂尾の茶が最もすぐれた「本茶」として記されており、京都宇治は栂尾の補佐として紹介されています。

ところが室町時代になると茶の主流は栂尾から宇治へと移り、宇治茶の名が広く知られていきました。

その後1400年代になると茶の栽培方法も洗練され、「栂尾茶」や「宇治茶」などの産地名だけではなく品質を表すような名前が付けられていきました。

1500年代には覆い下栽培が普及し、濃茶と薄茶のはっきりとした差が現れ、それぞれに固有の名前が付けられていくようになりました。

1500年代の室町時代後半になると、茶を飲料としてのみならず、文化を伴う「茶の湯(茶道)」が作り出されました。

戦国時代・安土桃山時代の茶道

ここから茶の湯・わび茶が確立される戦国時代・安土桃山時代について解説します。

なお、上記の動画では、簡単な茶道の歴史とこの時代に確立された茶道の精神についてとても簡潔に解説しています。

武野紹鴎 【わび茶を完成】

武野紹鴎は武具を扱う裕福な商人の父のもとに生まれました。

23歳の時、当時の花形職業であった連歌師を目指すため京都へ遊学し三条西実隆に弟子入りしました。

さらに、村田珠光の流れを継ぐ茶人から茶の湯を学びます。

つまり 武野紹鴎は村田珠光の孫弟子にあたります。

そして30~31歳のときに京都から堺に帰り、出家し古嶽宗亘から「紹鷗」の称号を得て、茶の湯に専念します。

村田珠光と同様に、茶室や茶道具の改革を行ないました。

紹鴎の茶室は、藁屋根の四畳半に囲炉裏を切った茶室で、さらに、唐物の茶器から信楽、瀬戸、備前といった和風の茶器を使いました。

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織田信長

織田信長は戦国武将のなかでも高い人気を誇る人物です。

茶の湯とのかかわりとしては、名物茶道具を強制的に買い上げる「名物狩り」や、功績のあった部下にのみ名物茶道具を下賜し茶会を開くことを許可する「御茶湯御政道」などで知られます。

信長は上洛してから本格的に名物茶道具に興味を持ち始めました。

上洛直後、信長は大和国の大名松永久秀から「つくも茄子」茶入、堺の今井宗久から「紹鴎茄子」茶入、「松島」茶壷の3点を贈られています。

信長は集めた茶道具をもとに、岐阜城や京都の妙覚寺などでたびたび茶会を開催しました。

合戦に勝利した証に茶道具を手に入れ、茶会で披露しては権威付けを行い、功績を残した家臣に恩賞として茶道具を与えることを繰り返していました。

つまり、信長は名物茶道具下賜のサイクルを生み出した人物といえます。

家臣も功績を認められたこと、茶道具を与えられたことを喜ばしく思っていました。

たびたび行われていた茶会のなかには本能寺で開催された茶会もありました。

本能寺の一角にある信長専用の宿泊施設で茶会を催すために、安土から「貨荻船」花入、「紹鴎白天目」を含んだ38点の茶道具を持参し、客には徳川家康や島井宗室らを予定していました。

しかしこの茶会は明智光秀の襲撃によって行われることなく、信長は自刃し、茶道具はほとんど焼失しました。

信長は収拾に力を注いだ茶道具とともに生涯を終えたのです。

信長が催した茶会の一つ、津田宗及を招いた妙覚寺での茶会を見てみると、掛物には牧谿筆「洞庭秋月」の絵、竜が彫られた漆台に乗った武野紹鷗蔵「白天目」が、さらに、三の膳までの料理、つまり武家の正式な饗宴になぞらえた食礼でもてなしています。

菓子には絵が描かれた縁高に9種類の水菓子などが出されました。

天下人である信長が茶会に使用した茶道具は、それまで以上の価値を持つようになり、それにより茶道具は高騰化していき、インフレ状態となりました。

ものによっては数千万円の評価をつけられるものもありました。

その希少で高価な茶道具は、それまでの所持者の権威や信望を示す「威信財」として考えられるようになり、物茶道具の文化的価値を知り、茶の湯を身に着けることは官位や和歌と同等の文化的かつ必須の教養として定着していきました。

そういった点も含め、信長は茶の湯に大きな役割を果たしたといえるでしょう。

1576年に、織田信長は安土城の築造を担当した丹羽長秀に「珠光茶碗」 を、その後に柴田勝家に古天明釜、 豊臣秀吉に 「月絵」 (洞庭秋月の絵)を下賜しています。

これが家臣への初めての茶道具下賜です。

天下人である信長が手に入れて茶会に使った茶道具は、それまで以上の価値を持つことになりました。

このように、信長が茶の湯に果たした役割は大きいのです。

以下の2つが戦国時代の武将と茶道の関係について読める本です。

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山上宗二記

「山上宗二記」は名物茶道具リストですが、時に値段に言及しており、現在の数千万円級の評価のものが並んでいます。

その希少性ゆえに高価で伝来の確かな茶道具は、 それまでの刀剣に並んで所持者の権威や信望を示す 「威信財」と 考えられるようになりました。

名物茶道具の文化的価値を 知り、 茶の湯を身に付けることは、 官位や和歌などに並ぶ 文化的な大名・教養大名たちの序列の上昇に必須の教養となっていきます。

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今井宗久

堺は、元々は小さな町でしたが、1476年ごろ、勘合貿易が始まったころから発展しました。

なぜなら、周防国の守護大名の大内氏が室町幕府と対立して瀬戸内海の航行を制限したことで、勘合貿易は四国沖を通るルートとなったからです。

以降、堺は貿易港として発展し、会合衆や新興の堺衆と呼ばれるリーダーたちが町の運営を行いました。

その中でも、いち早く織田信長に近づいたのが今井宗久です。

織田信長が堺を支配することになったときに、堺は反発して交戦しようとしました。

このときに、織田信長側についたのが今井宗久でした。

今井宗久は織田信長のもとを訪れて、紹鷗茄子という名の茶入と、松島という名の茶壷を進上しました。

その結果、信長は宗久に堺五ケ庄の代官職を与え、信長の茶頭を務めることになりました。

また、今井宗及は武野紹鷗の娘婿になり、多くの茶道具を受け継ぎいでいます。

津田宗及

津田宗及は、堺の豪商の天王寺屋の当主でした。

津田宗及は豊臣秀吉に茶頭の1人として仕えました。

大阪の石山の本願寺などが主な取引先で、これに加えて阿波や関西、九州の博多まで勢力を拡大し、武家を相手に物資の調達や年貢の管理をしていました。

信長によって堺の支配が認められると、信長との関係が深まっていきますが、それでも本願寺や三好一族などと関係を絶つことはありませんでした。

しかし、1573年には、一族とともに信長の妙覚寺茶会に参加し、 翌年2月には居城の岐阜城にただ一人招かれて歓待を受けており、この頃にやっと信長に従うことにしたようです。

今井宗及は父の宗達時代に続いて、子の宗凡まで3代にわたる茶会の記録 『天王寺屋会記』 を書き継いでいます。

信長、秀吉時代の茶会の様子のみならず、 当時の出来事までを自筆で書き残している貴重な茶会記録です。

天王寺屋一族が持ち伝えた名物茶道具の数はかなり多く、その一部は大徳寺龍光院に伝わっています。

島井宗室

海島井宗室は外貿易で発展した博多で、織田信長の時代に活動した人です。

島井家は、酒造業と金融業を経営していました。

島井宗室は九州を中心に6カ国の守護の大友宗麟に貸し付けを行い、対馬の宗氏とも貿易を行っており、九州での貿易に長けており、信長はいつか九州を領有することを考えて優遇したのではないかと考えられます。

1576年ごろ、大友家が薩摩国の島津氏に圧迫され始めると、宗室は信長に接近して特権の温存をはかるために天下三肩衝の1つである楢柴肩衝茶入れを進上するつもりでした。

信長は宗室に所持する茶道具を見せる約束をしていたため、宗室は京都本能寺に呼ばれていました。

しかし、信長は本能寺の変に遭遇したため、宗室はかろうじて弘法大師空海の書いた千字文を持ち出したというエピソードが残っています。

豊臣秀吉

尾張生まれで、織田信長に仕え、戦国大名として頭角を表しました。

秀吉の初めての茶会は、織田信長が行った茶会で使われた茶碗を使用しました。

この意図には、自分がいかに織田信長に可愛がられていたかをアピールするものだったと言われています。

信長から茶の道具を下賜されて以降は、今井宗久を通して茶道具の収集を行いました。

また、大徳寺大茶湯といった大規模な茶会も開きました。

また、当時の天皇である正親町天皇を自身が作った黄金の茶室に招いて茶会を開いています。

また、秀吉は千利休を自らの茶頭(茶坊主)に据えましたが、その後に自ら利休に切腹を命じました。

詳しくは上記の動画を参考にしてください。

また、こちらの映画も参考にしてください。

三國連太郎が千利休、山崎努が豊臣秀吉で出演している千利休の映画です。

映像がとても綺麗で、見ごたえがあります。

1989年9月公開の作品です。

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神谷宗湛

神谷家は、石見銀山を発見して、博多に運搬することで巨利を得たといわれています。

神谷宗湛は、豊臣秀吉に気に入られますが、この背景には、島津攻略、朝鮮出兵、博多の復興等を目指す豊臣秀吉の博多商人の協力を念頭に置いたものと考えられています。

千利休【わび茶を大成】

村田珠光が見いだした「侘び茶」を、 武野紹鴎がさらに洗練・完成させ、紹鴎の弟子である千利休が大成させたのです。

初めて千利休が催した茶会は、23歳、堺の自室に行われました。

その後、三好一族、織田信長に茶の湯で仕える形となり、17人を妙覚寺に招いた茶会では点茶役を執り行しました。

信長死後、秀吉に仕え、精神性の強い侘茶の体系化を行いました。

そして、秀吉が大規模に行った茶会の多くが、千利休の企画であり、利休がいなければ精彩を欠くものとなったとされるほど茶会では大きな貢献を果たしました。

千利休が作ったとされる茶室「待庵」は「妙喜庵(みょうきあん)」という京都にある仏教寺院の中ににあります。

待庵は国宝の茶室で「日本最古の茶室建造物」であり、千利休作と信じうる唯一の現存茶室といわれています。

間取りはわずか2畳ですが、草庵茶室(そうあんちゃしつ)と呼ばれる独自の構造で建てられています。

以下千利休に関するおすすめの映画です。

「利休」を演じるのは三船敏郎、利休の「弟子(本覚坊)」に奥田瑛二、「織田有楽斎」に萬屋錦之介が出演しています。

利休切腹の27年後、利休はどうして切腹したのか、どんな思いで切腹したのかを、利休の弟子と織田有楽斎が回想を混ぜながら解き明かしていく話で、井上靖の「本覺坊遺文」が原作です。

1989年10月公開です。

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利休が茶人になる前の若いころから切腹するまでを描いており、市川海老蔵が「利休」を演じています。

2013年12月公開です。

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細川三斎

細川三斎は千利休の茶の湯を最も忠実に守ったとされています。

1640年、78歳の高齢ながら京都の別邸で茶会を催しています。

千少庵と千道安

千少庵と千道安は千利休の子であり、それぞれ茶の湯に励んでいました。

少庵は京都の大徳寺門前屋敷で茶匠としての生活を始めました。

数年を経て市中の二条通に移りますが、40歳を過ぎた頃に本法寺前屋敷に移転しました。

本法寺前の屋敷には、利休大坂屋敷の茶室などを建てています。

ここでは利休所持の茶器を使って盛んに茶会を行い、公家の青蓮院門跡や西洞院時慶、武家の有楽、絵師の俵屋宗達、奈良の茶人・松屋久重らとの多彩な交流を繰り返し、京都で利休の茶を伝える活動をしました。

一方、道安は堺の家を本拠にしながら、1583年、37歳の頃に父の利休とともに秀吉の茶頭として活動しました。

1587年、秀吉が薩摩国の島津攻めを終えて帰還の途中、陣を張った博多の箱崎で利休らとともに茶会を行っています。

1598年の秀吉の死後は茶頭を辞して境に帰りました。

それから5年を経た1603年に、かつての「紹安」を「道安」に改名して茶会を行いますが、これが記録された道安最後の茶会です。

茶の湯のやきものの変遷

室町時代以前は、茶の湯のやきものは唐物の天目や青磁などが中心であった時代を経て、東南アジアの「茶壷」や「亀(瓶)の蓋」、朝鮮半島産の「井戸茶碗」などが使われていました。

ところが、1500年代後半には村田珠光・ 武野紹鴎らの影響により、唐物に変わる和物のやきものへと変化していきました

一方、豊臣秀吉の文禄・慶長の役を契機に新しい茶陶が出現します。

秀吉軍は朝鮮半島で陶器の生産に従事していた陶工たちを強制連行して各大名領に窯を築き、新しいやきものを作り始めました

佐賀鍋島家の唐津焼、山口毛利家の萩焼などがその代表的なやきものです。

これらの窯の中で大量に茶碗や食器などを焼いて領外にも販売して広まったのが唐津焼です。

唐津焼は松浦一族の波多氏が交易力を生かして朝鮮や中国から陶工を招き、生産を始めたとされていわれています。

さらに、鹿児島では武将・島津義弘が慶長のはじめに陶工・金海(星山仲次)に窯を築かせて、茶碗や茶入などを作り始め、さらに1605年頃には朴平意が新たに窯を築くなどして、鹿児島各地で日常品や茶道具が焼かれることになりました。

1600年代には、現代と同様に茶園ごとに固有の名前が付き、何種類かの葉茶をブレンドして味の違いを出す方法もとられるようになりました。

利休七哲の一人に数えられる細川三斎が、領地の豊前国小倉ではじめたのが小倉焼です。

開窯は1602年頃に朝鮮陶工の尊楷(上野喜蔵)であり、尊楷は小倉焼や、1607年頃に上野焼をはじめました。

1610年には奈良で小倉焼の芋頭形水指が使われているので、この頃までには茶会で水指として使うのに十分な茶陶が焼かれていたと思われます。

萩焼は1604年頃に、藩主・毛利輝元の命によって朝鮮陶工・李勺光、李敬兄弟が萩市松本村中の倉と、長門市深川村で窯を築いたのが始まりとされています。

当初は高麗茶碗に似た茶碗や皿などの実用品を焼いていました。

記録では1614年に織田信長の弟で茶人でもあった織田有楽が萩焼を茶会で使っていることから、茶の湯用の道具も作り出していたといわれています。

初花肩衝は、足利義政から織田信長、豊臣秀吉を経て家康が所持した茶道具のことです。

家康は茶道具を功績のある家臣や大名家の代替わりの折などに与え、定番の献上・下賜品であった刀剣と同等のものとみなし、そして家康は、史上最も大量の名物茶道具を持っていました。

家康歿後、9男で尾張徳川家の始祖である義直に譲られた名物茶道具300点を超えていたといわれています。

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江戸時代の茶道

ここからは江戸時代の茶道について解説します。

茶の湯は江戸幕府の儀式に正式に取り入れられました。

それ以前から茶の湯にはいくつかの流派があったが、江戸時代にはさらに多くの流派が生まれました。

三千家

千宗旦(1578-1658)は、千利休の孫で、千利休の孫で、茶の湯の普及に貢献しました。

最初の妻との間に二男をもうけ、その死後、二番目の妻との間にさらに二男をもうけました。

宗旦が長男を勘当したため、他の3人の息子(一翁宗守・幸信宗佐江岑宗左・仙叟宗)が武者小路千家を設立し、祖父の教えを受け継ぎ、武者小路千家、表千家、裏千家をそれぞれ設立しました。

以下で詳しく解説します。

武者小路千家

宗旦は、次男の一翁宗守を、幼くして漆器職人の家に養子に出しました。

しかし、宗匠は後に、先代利休の茶の湯を継承する道を選び、茶室「観休庵」を建て、武者小路千家をはじめ、茶人としての道を歩み始めました。

表千家

宗旦は、三男の江岑宗左を千家の跡取りとし、後に表千家と呼ばれるようになりました。

表千家は、千利休の娘婿の千少庵が、利休の死後、京都千家を再興したところであり、その代表的な茶室「不審庵」が知られています。

千利休の死後、千利休の娘婿である千昌庵(少庵)が京都千家を再興し、表千家四代目の宗左は、この屋敷と家風を受け継ぎました。

裏千家

宗旦は四男の仙叟宗室を医師の家に養子に出しましたが、数年後に医師は亡くなり、宗室は宗旦のもとに戻ってきました。

宗旦は隠居して家督を江岑宗左氏に譲ると、北側の隣接地に隠居所を設け、そこに茶室「今日庵」を建てました。

その後、宗室がその敷地を受け継ぎ、裏千家の本家になりました。

御茶壺行列

御茶壺行列とは、将軍用の茶葉を江戸に持ち帰る時に組む行列のことです。

1613年頃に始まり、幕末の1866年までおよそ250年以上に渡って続けられました。

当時は抹茶を売る店が無い時代だったので、茶壺に茶葉を詰めて持ち運びました。

行列は多い時に1,000人以上にもなり、茶道具だけでなく、茶葉も大事にされていたことがわかります。

朱印船貿易

朱印船貿易とは勘合貿易にかわり、江戸時代初めまで続けられました。

中国の明は厳しい貿易制限をしていたため、東南アジアが主な輸出でした。

江戸時代の約30年間、交趾に71回、シャム・ルソンに約50回など計350隻もの朱印船が渡り、日本人がルソンに3,000人、シャムに1,500人が滞在していたといわれています。


貿易船として徳川家康の時代の「末次船」や「末吉船」「角倉船」のほかに島津や鍋島、加藤、細川など九州大名たちも貿易船を立てています。

輸入品は中国の生糸や絹織物、漢方薬のもとになる蘇木、鉛や砂糖で、茶壺も輸入されていました。

茶壺は千利休所持の「橋立」などのように銘が付けられて名物とされた茶壺や「難波物」と呼ばれる小型の壺は注文品も含めその形や文様から「南蛮芋頭」や「南蛮縄簾」などと呼ばれ、水指に利用されました。

中国明代の景徳鎮窯に注文された陶磁器も大量に輸入され、日本に送られた染付の鉢や皿、飯茶碗、湯呑み合わせなど想像以上の中国製品が当時輸入されていました。

武家茶道

江戸時代の武家社会で行われていた茶道は「武家茶道」と呼ばれています。

武家茶道には、武家の日常的な作法がそのまま取り入れられており、たとえば、武家茶道ではお辞儀をするとき、三千家のように手のひらを畳の上に置くことはしません。

上記の動画のように、拳を軽く握ってゲンコツをし、両手を腰の横に置いて頭を下げます。

古田織部

古田織部は美濃の武将の家に生まれ、京都で豊臣秀吉の茶頭であった千利休に出会い、茶の湯を学びました。

利休の死後、茶道の第一人者となり、二代将軍・徳川秀忠に茶道を教え、武家の茶道作法を確立しました。

1599年には京都伏見の自邸に西国の大名である毛利秀元を迎え、茶会を行っています。

また、将軍就任前の徳川秀忠は、織部の茶会を訪れ、以降、1605年に織部を茶の湯師範に定めています。

当時の記憶には織部は利休の高弟の筆頭で、数奇者の唯一だと考えられていたとあります。

ところで、「御成り」とは将軍が家臣の大名邸を訪問することで、家臣にとっては大変名誉なことです。

そのために新しく御成門や座敷を新築し、座敷の飾りや料理も贅を尽くしたものでお供も1,000人以上の規模となります。

一方の「数奇屋御成り」は、大規模な準備はなく、少数のお供を連れ、将軍が喫茶のために訪問するものです。

織部は茶のイメージをこのように簡素化に努め、茶の湯のための庭である露地の景色を改良し、茶室には窓を多く設け、開放的な空間を作り出し、暗く内省的な茶室のイメージを大幅に変えました。

その他、織部は茶室や庭を新たに整備し、歪みや大胆な文様で飾られた伊賀や美濃の焼き物を茶会に使い始めました。

この時代に武家が求めていた新しい茶の姿を作り出したといえます。

さらに、新しい茶道具も作り出した。

伊賀焼水指銘の「破袋」が有名です。

「破袋」 とは焼成中にひび割れし、窯の中で灰が付着して変化した歪な姿のものを指します。

また、古田織部は、織部焼きの創始者です。

織部焼は美濃焼の一種で、主に美濃地方で生産されています。下記のような緑は織部焼の代表的な色です。

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「黒織部」や「鳴海織部」などと織部焼を元に、短期間に次々とデザインや配色を変え、大量に焼かれ京都方面で販売されました。

それまでの茶道具とは違い、カラフルでした。

織部の茶の湯を学んだのは佐竹義宜や上田宗箇、小堀遠州らの大名や本阿弥光悦などがあげられます。

小堀遠州

小堀遠州は、大名、画家、千利休、

小堀遠州(遠江守)は近江(滋賀県)湖北を治めた浅井家の家臣の家に生まれ、関ヶ原の戦いでは徳川家康に仕え、1604(慶長9)年幕府領の備中松山(岡山県)1万4,000石(約7億円)をあずかり、幕府関係の建物を造営・修理する作事奉行などを務めています。

茶の湯は古田織部から学び、古田織部以後の茶の湯の中心人物で、絵画、詩歌、生け花、日本庭園の設計に秀でた芸術家です。

遠州の茶道は、華やかで明るい雰囲気から「きれいさび」と呼ばれ、白を基調とした上品で華やかな茶碗を多く使用しました。

大徳寺孤篷庵の「忘筌席」をはじめ、多くの茶室を設計しました。

なお、小堀遠州は、三代将軍・徳川家光を指導し、遠州流の創始者として知られています。

ところで、遠州流は鎌倉の円覚寺でお稽古を行っています。

円覚寺の不顧庵(ふこあん)というところで、現在は本堂が建っている場所に、かつてはという茶室がありました。

作家の川端康成はこの茶室に寝泊まりをし、小説『千羽鶴』を書き上げました。

平成19年(2007年)に本堂建設工事の際に解体されましたが、同じ場所に茶室も作られ、今でも遠州流茶道のお稽古などで使われております。

また、茶室烟足軒(えんそくけん)もあり、川端康成の『千羽鶴』や立原正秋の『やぶつばき』などの小説に登場します。

円覚寺の茶室

もともとこの場所には、室町時代に佛日庵を再興した鶴隠周音(かくいんしゅういん)が建てた茶室があったと伝えられております。

抹茶と和菓子を飲めますので、ぜひ、円覚寺の不顧庵に行ってみてください。

茶道に親しんだ寛永期の文化人

ここでは茶道に親しんだ寛永期の文化人をご紹介します。

本阿弥光悦

本阿弥光悦(1558~1637)は刀剣の研ぎ、拭い、鑑定などを家職とし、足利将軍家の刀剣奉行を務めた本阿弥家に生まれました。

光悦も家職で加賀藩(現在の石川県)などに仕えますが、むしろ能書家として、やきものや蒔絵などの工芸作品の作者としてしれていました。

「鶴下絵三十六歌仙若巻」は絵師俵屋宗達の下絵に光悦が古歌を書いたものです。

「樵夫蒔絵硯箱」「赤楽兎文香合」「黒楽茶碗銘雨雲」や「光悦七種」と呼ばれる自作茶碗も有名です。

光悦は茶の湯の素養を身に付けていました。

本阿弥一族とともに古田織部の茶会にも参加しており、古田織部から茶を学んだと考えられています。

晩年には徳川家康から拝領した京都鷹峯で趣味三昧の生活を送りました。

その根拠として「私は昼夜4度の茶の湯で暇もありません」という手紙が残っています。

光悦治作の茶碗として最も知られるのは国宝の「不二山」です。

光悦は、「鷹峯の良い土を使って折々に作ったが、陶器造りで名を上げようとする気持ちは全くなかった」とコメントを残していたことから、趣味で作った茶碗であることがわかります。

茶碗の他に花入も作っていました。

松花堂昭乗

松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)(1582~1639)は、若くして石清水八幡宮(京都府八幡市)の瀧本坊(たきのもとぼう)に入って真言密教を学び、のちに住職になりました。

松花堂昭乗は、当時の一般的の書風である青蓮院流の書を学び、のちに弘法大師空海の大支流や平安時代の仮名を加味して「松花堂流」という書風を創り上げ、近衛信尹(このえのぶただ)、本阿弥光悦とともに「寛永の三筆」といわれています。

その一方で茶人としても有名で、1633年正月に当時の摂政であった一条昭良(いちじょうよしあき)が参加していた会では、七賢盆(しちけんぼん)に乗せた大名物の茶入れ「国司茄子(こくしなす)」や「碁盤香合(ごばんこうごう)」などが使われました。

また、足利義政旧蔵の「花白河蒔絵硯箱(はなのしらかわまきえすずりばこ)」も飾られていました。

いずれも後に、昭乗が所持していたことから「八幡名物」と呼ばれる、由緒ある茶道具です。

昭乗は晩年に瀧本坊住職を引退して、近くにわずかに二畳の住居「松花堂」を造って隠居生活を送りました。

煎茶道

煎茶道とは、茶道の一種で、煎茶(茶葉を小さく炒ったもの)、特に高級な玉露を点て、飲むものです。

17世紀末の江戸時代、長崎を訪れた中国人商人が、お茶の飲み方を紹介したのが始まり。

この中国茶の習慣は、18世紀から明治初期にかけて、文人商人を中心に、茶の湯ほど堅苦しくない友人同士の集まりという形で広まりました。

売茶翁(1675-1763)は黄檗宗の僧侶で、京都を中心に茶を売り歩いたことで有名で、煎茶の普及に貢献し、庶民に茶の湯を広めました。

近代の茶道

明治維新後、国民の間に西洋文化が広まるとともに、茶道は一時的に衰退しました。

しかし、もともと男性のものであった茶道は、明治時代になると、良家の子女が通う学校の教養課程に取り入れられるようになり、こうして、美しい着物を着た女性たちが優雅に行う茶道の文化が始まりました。

昭和に入ると、茶道は自立心の強い現代女性に注目されるようになり、社会的に居場所のない女性が多く、「成長したい」という思いから、習い事をはじめる女性が増えました。

日本文化の資格>>>「日本伝統文化准伝承師」取得コース

日本茶の資格>>>日本茶スペシャリスト資格取得講座

茶道の資格>>>茶道アドバイザー資格

おわりに

ここでは、日本の茶・茶道の歴史を解説しました。

簡単にまとめると、奈良・平安時代に唐から茶が伝わり、鎌倉時代には栄西が茶道「四頭茶会」を伝え、室町時代から戦国時代に村田珠光・ 武野紹鴎・千利休がわび茶を完成させました。

本記事は、主に以下の本を参考にしました。

もっと詳しく知りたい方はそちらをお読みください。

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